新選組局長近藤勇の流派としても知られる、天然理心流剣術の公式サイトです。


 


歴史

●流祖 近藤内蔵之助長裕
  天然理心流は、近藤内蔵之助長裕が寛政年間(1789年~1800年)の初期に、江戸で創始した剣術流派である。道場は両国薬研堀(東京都中央区東日本橋)というから、江戸の中心地で賑やかな場所であったと思われる。
 鹿島神道流からの伝系が書かれている伝書が残されているが、正しくは鹿島新当流なので、単なる字の間違いなのか他に意味があるのか分からない。
 剣術、柔術、棒術の独立した3つの伝系を有していたが、現在では剣術のみが継承されている。ただし、剣術の体系の中には居合術や柔術(小具足) も含まれており、これらは現在まで伝承されている。
  流祖について詳しい記録はほとんどないが、天保14年(1843)の「新撰武術流祖録」という様々な武術流派について書かれた本には、「天然理心流 近藤内蔵之助長裕遠江ノ人也、好刀術得其妙、号天然理心流其門近藤三助方昌得其宗方昌ハ武州八王子住其門許多シ」と記されている。内蔵之助が亡くなってから36年後の本なので簡単な記述なのは仕方がないが、遠江(静岡県)出身であることと、近藤三助の名が見られるものの、生年等は不明。
 没年は、江東区 北砂の妙久寺にある墓碑に、文化4年10月16日(1807年11月15日)と刻まれている。反対側には、門人小幡健貞、道統桑原昌英建之とある。

●二代近藤三助方昌
  近藤家二代目の近藤三助は、多摩郡戸吹村(東京都八王子市戸吹町)の名主、坂本家に生まれ、内蔵之助のもとで天然理心流を学んだ。内蔵之助が亡くなる直前に三助を枕元に呼び寄せ、人払いを命じて気術の奥儀を伝授されたと言われている。 その後の逸話でも、三助がいわゆる気合術のような不思議な術を使った話が残されているが、文政2年4月26日(1819年5月19日)に46歳で急死したため、以降その術は伝えられていない。

  三助が急死したため、まだ三助の弟子には継承者が育っておらず、流祖の高弟であった小幡万兵衛が残された門人を指導した。この中には、増田蔵六、桑原英助、宮岡三八、松﨑正作、井滝伊勢五郎、漆原権左衛門など、後に天然理心流を各地で指導し、多くの門人を育てた師範たちがいる。
  桑原英助の弟子である小野田東市は、有名流派の師範たちと並んで講武所の剣術師範役に取り立てられ、天然理心流が幕府に認められることとなる。また、松﨑正作の後を継いだ松﨑和多五郎は、大西政十、楠正重、秋間桂三、町田克敬、井上才市といった門人を育て、井上才市は後に心武館を設立し、現在まで天然理心流の技を残す礎を築いた。

●近藤周助邦武
  近藤三助が亡くなった後は、多磨方面を増田蔵六、神奈川方面を桑原英助、江戸では近藤周助と、それぞれの地域に分かれて活躍している。
  島崎家に生まれた周助が近藤姓に改めたのは天保元年(1830年)であるから、三助の死後11年が経過しているが、この間の事情は不明である。
  天保10年(1839年)江戸市谷甲良屋敷(新宿区市谷柳町)に道場を開き、嘉永2年(1849年)宮川勝五郎を養子に迎えるが、これが後の近藤勇である。文久元年 (1861年)代を勇に譲り隠居し、名を周斎と改めた。
  慶応3年10月28日(1867年11月23日)没。享年76。 

● 近藤勇昌宜
  多摩郡上石原村で、宮川久次郎の三男として生まれ、幼名は勝五郎といった。生来の資質が認められ、周助のもとへ養子に入り近藤勇となった。文久元年(1861年)には府中 六所宮で四代目襲名披露の野試合を行っている。
  14代将軍徳川家茂の上洛警護のため幕府が募った浪士組に、近藤勇以下試衛館の土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助ら8人が参加することを決め、浪士組一行と共に文久3年2月8日(1863年3月26日)京都に向けて出発した。
 京都に着いた試衛館の面々は、浪士組を離れて前川邸を屯所とし新選組を結成、幕末の京を舞台に大いに活躍するのだが、このあたりについては多くの研究書が出されているので、ここでは触れない。
 戊辰戦争で江戸へ戻った近藤勇は、流山で捕縛され、 慶応4年4月25日(1868年5月17日)板橋にて斬首された。享年35。

  近藤勇は、天然理心流の後継者として後を沖田総司に譲りたいという内容の手紙を書いているが、勇の死から2ヶ月後に沖田も千駄ヶ谷で病死しているので、勇の剣統はここで絶えてしまうことになる。
 勇の一人娘タマの入り婿である勇五郎が近藤家に入ったのは、勇の死から8年後のことで、勇の知るところではない。また、勇が浪士組に参加して京へ旅立った時、勇五郎はまだ12歳であり、その後稽古をする機会はなかったので、勇五郎が勇から天然理心流を習っていないことは明白である。ただ、近藤家を継承し た功績は大いに認められるところであるが、残念ながら勇五郎とタマの息子久太郎は日露戦争で戦死したので、近藤勇の血脈はここで途絶えてしまった。